久能山

 

久能山 ( くのうざん )     久能山についてまとめて読む

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2009年10月19日 03:40:26
2010年01月24日 23:19:59
  • ツーリング - zipang_sky @ Wiki - ツーリング 記事2を表示記事2を非表示 2010-01-24 23:19 記事の概要:
    ~島根 2006/11/08~09 2日目 出雲周遊 島根~京都 2006/11/10 3日目 京都で休憩 京都~名古屋 2006/11/11 4日目 久能山東照宮 名古

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開運の鼓 - 国枝 史郎
  • ...霊の在(おわ)す駿州久能山に籠もられるこそ策の上なるものと存ぜられ申す。そこにて天下を窺(うかが)わせられい」  実(げ)にもと思う武士達の顔をズラリと一渡り見廻してから彼は手綱(たづな)を掻い繰った。馬は粛々と歩を運ぶ。危険は瞬間に去ったのである。  彼と西郷との会見について後年彼はある人に次のようなことを語ったことがある。 「薩摩屋敷へ行って見ると、すぐに一室へ案内された。しばらくすると西郷は洋服の足へ薩摩下駄を穿いて、熊次郎という僕(しもべ)を従え平気な顔をして現われた。庭から室へはいって来ると『先生おおきに遅刻し申した』こう云ってノッソリ座を構えたものだ。大事件を眼前に控えている...
静岡地震被害見学記 - 寺田 寅彦
  • ...られた。静岡の南東|久能山(くのうざん)の麓をめぐる二、三の村落や清水市の一部では相当|潰家(つぶれや)もあり人死(ひとじに)もあった。しかし破壊的地震としては極めて局部的なものであって、先達(せんだっ)ての台湾地震などとは比較にならないほど小規模なものであった。  新聞では例によって話が大きく伝えられたようである。新聞編輯者は事実の客観的真相を忠実に伝えるというよりも読者のために「感じを出す」ことの方により多く熱心である。それで自然損害の一番ひどい局部だけを捜し歩いて、その写真を大きく紙面一杯に並べ立てるから、読者の受ける印象ではあたかも静岡全市並びに附近一帯が全部丸潰れになったような風に...
樹木とその葉 30 駿河湾一帯の風光 - 若山 牧水
  • ...山がその焦點になる。久能山より仰ぐ富士、三保の松原|龍華寺(りゆうげじ)の富士、薩※峠(さつたたうげ)の富士、田子の浦の富士、千本松原の富士、牛臥から靜浦江の浦にかけての富士など説明を付けるのがいやになる位ゐもう一般的に聞えた名勝となつてゐる。名物にうまいものなしの反對で、以上とり/″\にみな見られる景色であるだけに却つて筆の執りにくいおもひもするのである。  なかで私の一番好きなのは田子の浦の富士である。田子の浦といふと何となく優美な――例へば和歌の浦とか須磨の浦とかいふ風の小綺麗な海濱を豫想しがちであるが、事實はひどく違ふ。意外な廣さ大きさを持つた砂丘の原であるのである。  九十九里が...
樗牛の事 - 芥川 竜之介
  • ...静岡(しずおか)から久能山(くのうざん)へ行って、それからあすこへまわったかと思う。あいにくの吹き降りで、不二見村(ふじみむら)の往還から寺の門まで行く路が、文字通りくつを没するほどぬかっていたが、その春雨にぬれた大覇王樹(だいはおうじゅ)が、青い杓子(しゃくし)をべたべたのばしながら、もの静かな庫裡(くり)を後ろにして、夏目先生の「草枕(くさまくら)」の一節を思い出させたのは、今でも歴々と覚えている。それから急な石段を墓の所へ登ると、菫(すみれ)がたくさん咲いていた。いや、墓の上にも、誰(だれ)がやったのだか、その菫を束にしたのが二つ三つ載せてあった。墓はあの通り白い大理石で、「吾人は須(す...
増上寺物語 - 佐藤 垢石
  • ...去の時は、最初駿河の久能山に葬り、その後間もなく日光に移したのであったが、いまに残る華麗な建築物は、寛永十三年に至って家光が、初期の建築物を改造したのであった。二代秀忠は増上寺境内へ祀って台徳院と称した。次に三代家光は日光と上野寛永寺に祀ったが、寛永寺の廟は焼失し、残るは日光のものばかりとなったのである。  四代家綱、五代綱吉の廟は上野へ持って行き、次の五代と七代の廟は芝に造営した。一代から七代までは、芝に置こうが上野に置こうが一代ひと構えとして独立の霊廟を建造経営する慣わしとなっていた。ところが、八代吉宗からこの慣わしを破ってしまったのである。つまり、次から薨去した将軍は、先代の廟に合祀し...


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